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センゴク -書きたいけど詳しく書く気力がないあれこれ(1) 主に武田-


酷いタイトルですが…
ヤングマガジンで連載しているセンゴク、現在は信長がやっとこさ死亡して、これから秀吉の大返しが始まります。
ここまでくるのに単行本にして35冊分ぐらいですが、それでも語られなかった多くのエピソードがあります。
その中でも、私が見聞きして特に面白いと思ったものについて、ぽつぽつ書かせていただきましょう。
本当はそういうのを、出展元を確認したり地図を広げたりして、自分でちゃんと飲み込んでから書きたいのですが、そこまでの熱意と知識と時間がないので、聞きかじりのまま語らせていただきます。
興味のわいた方は、私の文章などを鵜呑みにせず自分で調べてみたりすると、また調べることの楽しみなど出てきますのでおすすめです。
今日はまず、武田滅亡までに描かれなかったエピソードなどを紹介。
と、その前に前回の記事の補足というか訂正というか、というものを書いておきます。


・仙石秀久の九州・豊後の敗北について
 前回記事にしました「センゴク 主要人物の史実」で以下の一文を書きました。
「九州地方平定の際、第一陣として現地入りした際に軍勢の整わないまま抜け駆け突撃した挙句、島津の戦法釣り野伏せにやられて四国の有力大名勢をあらかた皆殺しにされる大損害を出した挙句、一人びびって一直線に自分の城まで逃げ出すという大失態をやらかします。」
 これは全くの事実なんですが、私が日頃毎日楽しみに拝見している某所にて、以下のような話を聞きました。

  6千は四国勢のみの数で、大友勢を入れれば2万はいる。
  だからこそ元親は「大友勢を待て」と進言したんだけど、肝心の大友勢がぐずぐずしていて進軍が遅れまくっているもんだから、このままじゃ落城すると秀久が攻撃開始したのが流れ。

 うおぉ…今までセンゴクさんがお馬鹿ちゃんだから勝手に功を焦って突撃した挙句ボコボコにされたと思ってたけど、もっと広い視点で見るとそうなるのか…と感動してしまいました。
 確かに、功績を焦って6千の軍勢で島津2万に突撃かけるよりは、よほどこちらの方が理にかなってる。
 センゴク作中でも良く言われるように、後詰めというのは単純な援軍というだけでなく「味方であるおまえらを見捨てない」という政治的なメッセージでもあります。
 ここで救援が遅れて利光城を捨てた場合「秀吉の軍勢は本気で助けに来ない」「あいつらは助けにこないから寝返ってもいい」という政治的に言い訳できないメッセージになってしまうわけで、ここで秀久さんが強硬論を主張したのも秀吉の立場を考えれば正しいものだと言えます。
 一般に好意的に見られてる四国勢の「大友勢を待て」って言う進言についても、「九州勢とは何の縁もないのだから、城の救援は二の次でなるべく被害を出さないようにしつつ島津勢とぶつかって戦った事実だけ欲しい」という軍事的な戦略に基づくもので、秀久と立場の相違による意見の食い違いによるものだと言えます。
 下手したらこれ、自分の城まで逃げなかったら叱責だけで済んだんじゃなかろうか、尾藤、神古田と違って処刑されなかったのはこういう背景があったんじゃないだろうかと思わせる中々に深い話でした。
 まあ、救援頼んでおいて自分は足踏みする大友さんの馬鹿っぷりは不動なわけですが。
 この辺りをどう作中で書いてくれるか、非常に楽しみなところです。
 あと、個人的には九州征伐の時の高橋紹運さんのエピソードは神がかってると思うので、脱線してでも岩山城のエピソードは描いてほしいところ。






・武田について
 作中の長篠の戦いではかなり余裕の四天王さんでしたが、これについては「無謀だから今回の戦いやめとこうぜ」っていう進言を無視されて、みんなで末期の酒と覚悟した、みたいなエピソードも残ってます。
 武田滅亡までの間で語られなかったエピソードで、私が知る印象深いエピソードは以下の通り。


【鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話】
 合戦が起こる前、武田によって包囲されていた長篠城は篭城を始めてわずか5日で食料を焼け出され、風前のともし火状態でした。
 この時、重囲されていた城を抜け出して徳川に援軍を要求する役目を請け負ったのが、足軽だった鳥居強右衛門です(援軍の使者に立てる身分ではないが、彼の他に城を抜け出そうという勇者がいなかった)
 で、この人は見事包囲を突破して援軍の要請に成功。しかもこの時、武田と決戦すべく織田軍もきており、その朗報を知らせるべく強右衛門さんは城に戻りますが、警戒が強くなっていた武田軍に捕まってしまいます。
 強右衛門によって徳川・織田の援軍が来ることを知った武田勝頼は、援軍が来る前に城を落とす必要に迫られ、強右衛門に「援軍はこないから諦めて開城しろと叫べ。そうすれば武田の家臣として厚遇する」と伝え、城門の前に連れていきます。
 しかし強右衛門は「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱だ!」と叫び、激怒した勝頼にその場で磔にされました。
 その姿は味方の兵士はもちろんのこと、敵の武田方にも感銘を与え、その最後の姿を書き記した絵が残されています。


【おつやの方について】
 作中では叔母でありながら信長に恋慕するも、敵将・秋山信友に口説かれて城を明け渡し、秋山の奥さんになってます。
 しかも、この時かなり無理して養子にした信長の五男:坊丸さんを武田の人質として差し出しており、信長さんを激怒させました。
 そうして寝返ったわけですが、長篠の戦いの後、武田は守勢に回ることになります。
 彼女の住む岩村城を奪還すべく織田の軍が侵攻。孤軍奮闘して城を守っていた秋山に対して、織田の使者がやってきてこう言います。
 「叔母の城の城兵にて兵火にさらすのは忍びない」
 その言葉に秋山夫妻は開城を決意します。
 しかし、血縁でありながら敵に寝返った彼女に信長は相当腹に据えかねていたらしく、秋山夫妻とその子供を逆磔刑にして殺し、城兵は一箇所に集めて焼き殺しました。
 末期にあたって彼女は「敵方であった秋山信友は開城に際し約束を守ったのに、身内である信長は和議の約束を反故にするのか」と言い、呪いの言葉を発しながら死んでいきました。

 さて、ここまで書くと叶わぬ恋をした挙句、愛する人に裏切られた悲劇の女性になるのですが…実は作中で取り上げられている秋山に口説かれて城を空け渡すという部分が創作らしいです。
 武田に関する情報で比較的信用できる一次資料がないらしいのですが、『甲陽軍鑑』ではこの岩村城を落としたのは不死身の鬼美濃:馬場信春となっており、秋山は三方原の戦い(徳川家康が恐怖のあまり脱糞して逃げた戦い)に参加していたとのこと。
 …どうもこのおつやの方は、武田信玄が南下してきたと聞いて勝手に寝返っただけらしいです。
 前線の最重要拠点の城の、しかも身内の城主が調略もされてないのに勝手に寝返り…オォィィ…信長じゃなくても普通に死刑だぞそれ…
 この時期の信長の危機的状況を考えたら「身内の人さえ寝返ったんだ。俺も寝返っていいよね!」とか言って連鎖的にバタバタ味方が抜けて、滅亡する危険性もあったわけで(武田は似たような状況で滅亡してる)
 逆磔はともかくとして、殺されたのは仕方がないのではないでしょうか。


【高遠城攻めについて】
 センゴク作中では一夜で攻め落とされた楽勝(笑)みたいな扱いになってましたが、中々の激戦だった模様。
 城主:仁科盛信は織田からの降伏勧告も拒否し、使者としてやってきた坊主の耳を削いで返し、徹底抗戦をしています。へうげものの2巻でも、鼻と耳を削がれて頭に『忠』と刻まれた坊主の描写がありましたね。
 さて、この時の城攻めで一際光り輝くのは、なんと言っても『鬼武蔵』森長可です。
 父親は『攻めの三左』森可成。柴田勝家よりも前から信長に仕えた人で、超絶美形・戦上手、しかも浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突いた際に街道封鎖のために討ち死にするまで戦った忠臣でもあります。弟は森蘭丸。
 この父親は森家の人間にしては常識があり、色々と面白い逸話もあるので、気になる方は調べてみると良いでしょう(討ち死にの知らせが広まった時、何の縁もない女達が弔問にきたとか(美形過ぎてファンがいた模様))

 そんな父親から生まれたこの長可さん、武勇については父親を上回るとすら言われるほどなんですが、性格が…その…なんていうかクソ外道でして…
 いくつかあげると以下の通り。
  ・ある時長可が門を通ろうとした際、門番が「今は誰も通すなと言われています」と言って静止したところ、長可が槍でブスリ。その上で家臣達に「火を放て。騒ぎになってる間に俺が通るから」と言って放火。信長は「長可だから仕方ない。許してやれ」と言って無罪。
  ・遠照寺を訪れた際、軍勢の食料を提供してくれたお礼に陣太鼓と鰐口を寄進した。この陣太鼓は数日前に神宮寺普賢堂から略奪したもの。鰐口も盗品。ちなみにこの二つは遠照寺の寺宝になっている。
  ・食料の提供依頼を断った寺に放火。この際、仏像だけは外に出させ「川向かいの畑にでも並べておけ。寺が燃える様子でも見せてやるといい」と言って仏像を並べる。その後、その畑は仏畑という地名に。
  ・本能寺の変後、上洛しようとする際に北信濃の国人衆から「預けていた人質を帰してくれ」と言われ、返還に応じる。集まった人々の目の前で人質を殺害し、死体を返して逃亡。
  ・小牧・長手川の戦いで秀吉側について戦った長可が討ち死にした際、重要な局面での敗戦にも関わらず秀吉は「長可が死んだの!? やった!!」と叫んだ。
 などという、笑えないエピソードが多々存在します。
 あと、領内の水神やら大蛇やらをばっさばっさと切り殺す生粋のモンスターハンターでもあります。
 こんな恐ろしい逸話が山とあるのに、遺言で「大名というものは殺したり殺されたりでつくづく嫌になったから、娘は町人に嫁がせろ。医者とかがいい」みたいなことを書いてるもんだから勘違いした人が大勢いるらしく、小説家とかが後書きで「森長可は平和を愛する心優しい男」みたいなことが書いてあってもはや何の冗談だよwwwwwレベル。

 そんな長可さん、高遠城攻めの際にも凄まじい逸話がいくつも残ってます。
  ・三の丸攻めで部隊を屋根の上に登らせて鉄砲を撃ちかける、という戦法で戦果を挙げる。この時、この部隊は屋根瓦をひっぺかし、三の丸内部にも鉄砲を乱射している。最上階は兵士妻子老若男女関係なく皆殺しで血の池になった。この部隊はこの時を境に『屋根葺衆』と呼ばれるように。
  ・二の丸攻めで強い抵抗にあった際に軍使を出し「もはや両軍とも兵が疲れ切っておる。いったん戦を止め、とりあえずの和議を結びたい。保科殿、出てきて話をしないか」と提案。
   主将の保科正直が数名を引き連れて門を開いた瞬間、保科さんを捕らえて「こいつの命が惜しかったら抵抗をやめろ」と言い放ち、二の丸を落とす。「あの、森さん…俺のかみさん、人質で本丸にいるんスけど…」「で?」
   …ちなみに正直さんはちゃんと殺さずに逃がしてもらえたらしい。
  ・一段落付いた時の織田信忠さんとの会話。
   「森くん、手負いじゃないの?」「いや、かすり傷っすよ」「腰から下が血まみれじゃん。出血やばくね?」「ああ、返り血ですわ」
   …ちなみに森さんは先鋒の司令官であって、間違っても先駆けでも足軽でもない。
 ちなみにこの鬼武蔵さんの逸話は戦国時代の数ある資料の中でも特に異彩を放っているので、調べてみると妙な笑いがこみ上げてくるのでオススメです。
 木曽義昌に攻められた時の記録に「木曽ニ一味シ我ニ敵為ス輩、残ラズ踏潰スベシ」(木曽義昌のようにオレ様に逆らう奴は、全部踏み潰してやらぁ)とか「乳犬ノ、虎ヲ犯ス如キ者共哉」(乳離れもできてないワンちゃんが虎をレ○プしようってか?)とか残ってて、ちょっとこれなんで記録が残ってるのwwwみたいな台詞がバンバン出てくるのが最高なので、興味がおありの方はぜひ調べてみてください。


【その他の方々】
 ・穴山信君
  作中で真っ先に武田を裏切っている人。ポジションとしては親族衆の筆頭みたいな人。この裏切りは情勢判断が的確だという好意的な意見もあります。
  長篠の戦いの戦後処理で尽力している話もあって、領民家臣からは慕われていた模様。
  さてこの人、本能寺の変後に家康と別行動を取ったところ、落ち武者狩りにあって死亡したと言われています。
  この原因の一説として言われているのが…です。
  信長の接待による飲酒、更にその後の堺見物時の商人達からの接待による大量飲酒により痔が悪化。歩行も満足にできないまでなってしまった。
  そんな中本能寺の変が始まり、家康と共に逃げていたものの、途中で脱落。思うように先に進めない内に狙われてしまったという…。
  意外にありそうな話で妙に納得してしまった話でした。

 ・山県昌景
  四天王の一人。作中では美形っぽく描かれていましたが、背が低く(135cm前後)、上唇が鼻まで裂けて猫口になっていたそうです。
  家康は武田好きの山県好きだったので、家臣に兎口の子供が生まれた際に「その子は山県の再来だから大事に育てるように」みたいなことを告げたという話があります。
  残っている発言も謙虚なものが多く、他国者をよく率いたという話がある一方で、戦の際は耳元に雷が落ちたような凄まじさで号令をかけていたといいます。



疲れたのでここまで。
次回は毛利の三本の矢の話か、黒田さん家の話のどちらかになる予定です。
by udongein | 2013-07-07 01:44 | 雑学


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